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7月11日、関ヶ原、矢野家を訪ねて岐阜に行ってまいりました。商工会議所の皆様とご一緒させていただいた旅です。今夏の猛暑の始まりのような暑い1日で、矢野家の方々にお目にかかりましたときは、汗だくでした; が、みなさまのお心のこもったおもてなしに生き返った心地でした。この旅で学んで参りましたことを書かせていただこうと思います。 *** 矢野家は矢野安芸守通義が美濃国加茂郡切戸村に住まい、その子孫、矢野五左衛門貞重が美濃の国守護代斎藤利安(白樫城主)の家老として白樫に住み、土着し、郷士(地侍)となった。1505年に没す。 宇喜多秀家公を匿った矢野五右衛門重昌は貞重より数えて5代目で、約250石を領す郷士であった。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで落人となった宇喜多秀家公を伊吹山の東側の粕谷川筋の山中で、落人狩をしていた五右衛門一行がみつける。しかしながら、あまりの気高さと流浪の哀れな様子にうたれ、白樫村の屋敷に匿うことにした。詮議の厳しい中、約40日間屋敷内の土室に匿った。その間、秀家公は歌を詠み、月の夜には近くの河原で乗馬などをして過ごされたという。又、側近の進藤三左衛門が宇喜多家の家宝(脇差 )を携え、本多忠勝に「秀家の伊吹山中での自害」を自訴し、詮議の目を免れた。その後、五右衛門は秀家公を病人に仕立て、大阪の備前屋敷に無事送り届ける。矢野五右衛門は秀家公隠匿後、慶長12年(1607年)白樫の地で亡くなるが、秀家公の自首後も咎を受けることはなかった。その後矢野家は西北児島筋の大庄屋として苗字帯刀を許され、明治維新まで勤められた。 *** 現在のご当主(31代)矢野紀雄氏そしてご家族のみなさまにおめにかかりました。秀家公が助けられたことに感謝を申し上げ、残された兜仏、刀、豊臣秀吉公朱印状を見せていただきました。 矢野家は代々、秀家公及び関ヶ原合戦戦没者の供養を続けていらして、私共もお参りさせていただきました。 穏やかでお優しい矢野ご夫妻に、400年もの間、ご先祖様と同じように秀家公をご供養くださっていることに感謝申し上げ、お暇いたしました。 「秀家公はどんなお方だったのでしょうか?」と質問いたしましたところ、「大変おだやかで、凛々しい方だったそうです」とご返事が返ってまいりました。 次の日、関ヶ原へ行ってまいりました。あちこちに軍旗がたなびき、陣太鼓が聞こえてくるようでした。 地元のボランティアのかたの案内で笹尾山(石田三成の陣址)、南天満山の麓、 天満神社の境内にある宇喜多家陣址に登りました。ここはもっとも激しい戦いが繰り広げられた場所の一つです。 今は静かな境内で、蝉しぐれの中、お参りいたしました。 松尾山(小早川秀秋の陣跡)大谷吉継の陣跡は時間がなく行くことができませんでしたが、次回の楽しみにしたいと思います。 今回の旅で感じたのですが、秀家公を匿われた矢野家、鹿児島の平野家 そして八丈島の皆さま方に共通するもの――それは”人情“です。古臭い言葉になりつつありますが、日本人が大切にしてきたものだと思います。秀家公も大変な困難に遭遇しながらも84歳まで生きのびられたのは、ご自身が”人情“を大切になさった方だからでしょう。 矢野家のみなさまにこの場を借りていま一度御礼を申し上げます。そして、このブログを読んでくださった皆様にも感謝申し上げ、この旅の報告は終わりと致します。 感謝。 おふくの会 (杉山)
by o-fuku
| 2013-08-25 22:43
| ゆかりの地を訪ねて
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