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6月22日、(私が属しております)岡山市観光ボランティア活動連絡会の有志の皆様と岡山県北の勝央町太平台にある“高母平”に行ってまいりました。 勝央町平地区の住民有志でつくる「戦国のうゑ月たいら邑戦国史跡調査協議会」の皆様とのご縁は、今年5月8日付山陽新聞のコラム「滴一滴」(岡山一郎氏執筆)の記事をきっかけに、光珍寺さまよりご紹介いただいたことから始まりました。 高母平山には、宇喜多直家と後藤勝基(三星城主)との合戦で亡くなった侍方を、敵味方なくお祀りした供養碑があると伺い、お参りすることが目的の訪問です。 前日夕方から当日の午前中まで、岡山には珍しいくらいの激しい雨でしたが、勝央町に着くと同時に不思議に雨は止みました。協議会会長の植月さま、お世話役の赤木様をはじめメンバーの方々が出迎えてくださいました。水嶋勝央町長もお忙しい中、駆けつけてくださって勝央町のお話をしてくださいました。(過疎化に悩む地域が多い中、ここは人口が増えているそうです。生活用水、畑そして工業用水それぞれのために3つのダムがあり、水が豊富でお米が美味しく、大変生活がしやすいとのことでした。”坂田の金時さん“の終焉の場所でもあります。大変前向きなエネルギッシュな町長さんで、勝央町のこれからが楽しみです。) そうして、高母平へいよいよご案内いただくこととなりました。霊山あるいは聖地とでもいいましょうか、昔は村人しか入山できなかった大切なところであったと感じました。身を清めて入山するための境があったのでしょうか、その場所を証明するかのように2つの大きな礎石が足元にありました。これは山頂の神仏への参道門石といわれております。険しい、落ち葉に覆われた古い石段を杖を使って上ります。地元のみなさまが草を刈り、歩きやすいように道をつくってくださっていました。石段をのぼり切れば土塁が道を横切り、ここからが神仏の区域の境界と思われました。古墳群があり土塁と思われる土手、石垣、井戸の跡、古い祠、雨乞いのための広場、弘法大師が祀られているお堂。大変神秘的な空間です。山頂へ向かいますと樹齢100~200年以上の木々の間から大きな岩が見えました。これは”牛岩“とよばれるもので、上部に大きな石の板碑が差し込まれておりました。これが供養碑でした。 この供養碑は天正7年 三星合戦 (城主 後藤勝基 と宇喜多直家との戦い)で勝利した宇喜多直家が家老岡豊前の守家利に命じ敵味方なく戦死者をいたみ、お寺(現在津山に移転の経王寺)を建立、そして高母平山頂東面の通称“牛岩”の上に板碑(日蓮宗文字曼荼羅)と不動明王像を供養として建立と伝えられているのです。 後藤勝基は直家公の息女千代姫の夫、つまり直家公の婿ですが、不和を生み避けられぬ戦いとなりました。1579年、勝基は武運つき42歳の命をたちます。千代姫は息子とともに吉見の医王山城へ平を通って逃げます。途中宇喜多軍からの猛攻撃を受けるのですが、実は鉄砲には弾を入れない空砲であったといわれております。無事に2人を逃がすため直家公が命じたのです。 その後、夫勝基の自刃を知った千代姫は後を追いますが、息子は逃げのびて毛利家に仕えたとも言われております。悲しい結末となりますが、直家公の人間としての優しさを感じますのは、私一人でしょうか。 赤木様の素晴らしいご説明に感激し、戦国の世を生き抜いた宇喜多一族をはじめ、後藤一族、岡一族を思いながら下山しました。 今回の旅で感じましたことは、伝承の中にこそ”真実“があるのではないかということです。村の方々が代々受け継いでいらっしゃるお話からは、今まで知らなかった”直家公“の優しさ、千代姫と勝基との夫婦愛、戦国の世にも家族を愛する気持ちは今とかわらないことを確信いたしました。 私たちは「梟雄」と恐れられた直家公そして宇喜多一族の真実の姿をこれからも探求していきたいと思います。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」には、残念ながら納得できない場面が多々あります。(ドラマですが)織田にとって宇喜多家の存在がどんなに重要であったか、「おせん」なる女性を秀吉の閨に行かせなくとも宇喜多軍が織田軍へ味方すると表明したことは願ったりかなったりだったはずです。備前の国が同盟を願い出たことが高松城の水攻めを成功させ、豊臣氏の天下取りの足掛かりとなったことは間違いない事実です。~高母平で出会った宇喜多直家公の歴史は、ドラマで描かれる歴史との違いを強く感じさせるものでした。 植木会長をはじめ赤木様、皆々様に心より御礼申し上げます。素晴らしい交流ができましたこと、まさに「おふくさま」が望んでいらしたことでしょう。これからもこの絆を大切にさせていただきます。皆々様のご健勝ととともに勝央町のますますのご発展をお祈り申し上げます。 ありがとうございました。 おふくの会代表 杉山真子 26年6月28日
by o-fuku
| 2014-07-02 21:52
| ゆかりの地を訪ねて
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