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2月14日 バレンタイン~本年も宇喜多直家公の祥月命日にあたり、菩提寺光珍寺さまにて法要。お供えのチョコレートは年々に多くなっている気がいたしました。 ![]() ![]() 続いて記念の講演会を開催しました。 ![]() 日本中世史とりわけ女性史の研究を続けておられる京都橘大学名誉教授の田端泰子先生が、ていねいに史書を読み解きながら、おふくさま、その子秀家公やお姫様方のお話をしてくださいました。時代を生きた人々の姿が蘇るようで、歴史を知ることの面白さをあらためて教えていただいたような思いです。 ![]() 本年も法要から、100名を超える、多くのお参りの方々と一緒におふくさまの生きた時代に思いをはせることができました。よいご法要になったのではないかとありがたく思っております。 合掌 (おふくの会) #
by o-fuku
| 2016-02-13 18:32
| イベント
お知らせ 「戦国の涼星☆宇喜多直家フェス」 直家公命日法要 おふくの会は今年も宇喜多直家公の法要と講演会を開催いたします。 今年の講演会は、「日本中世女性史論」「戦国の女たちを歩く」他、多数の著者である 田端 泰子先生を講師にお迎えし 「高台院様 ~秀家と豪姫の母~」と題してお話しくださいます。 日時 平成28年2月11日(木・祝) 場所 光珍寺 プログラム 10:30~11:00 宇喜多直家公命日法要 11:00~12:00 講演会「高台院様 ~秀家と豪姫の母~」 ※ 皆様のご参加、お待ちしております。 ![]() #
by o-fuku
| 2016-01-25 22:22
| イベント
2015.10月11日(日) 今年も宇喜フェス☆おふく茶屋 出店いたしました! さわやかな秋の一日、今年も岡山城のおひざもとに陣取って(?)、秀家公を思いながら皆さまをお茶とお菓子でおもてなししました。 ![]() おふく茶屋の今年の「目玉」は、おふくの会☆限定☆特製のマスキングテープを頒布したことです♪ ![]() 岡山のほこる カモ井さん製 のマスキングテープ 家紋やお城デザインで かわいいもの好きの歴女にはとりわけ好評いただきました。またの機会に販売させていただきます。 宇喜フェスの人出も年々増えていて、今年はとりわけにぎやかに感じました。お茶屋も3時前には完売。 多くのお客さま、お友達に今年もお立ちよりいただきました。毎年のことですが、秀家公もおふくさまもこんな城下の今を喜んでくださっているように感じました。 ![]() みなさま 来年もお城の下でお会いしましょう! (おふくの会 J) ![]() #
by o-fuku
| 2015-10-16 20:17
| イベント
7月4日、おふくの会恒例の「宇喜多家ゆかりの地を巡る旅」に行ってまいりました。 今回は少し趣を変えまして、関ヶ原合戦前後の宇喜多家、また豊臣家とのつながりを感じたく思い、昨年に引き続き京都を訪ねることにしました。 まずは、秀吉公が祀られている豊国神社と方広寺へ。 元々この場所には、豊臣家が造営した方広寺大仏殿がありました。東大寺の大仏殿よりも大きかったそうですが、地震や火事で大仏殿は現存していません。巨石による石垣がその名残を留めています。鳥居をくぐると立派な唐門が目に入ります。この唐門は伏見城の遺構と伝えられ、国宝に指定されています。精巧な彫刻が施された黒い木地に金色の装飾や桐・菊の紋が映えて、いかにも桃山時代!という豪華な造りです。神社の方にお聞きすると、桐・菊紋は明治時代に移築される前から変わっていないとの事ですが、屋根の上の見えない部分には徳川時代の葵の紋も残っているそうです。 ![]() ![]() 神社へお詣りした後は、宝物殿へ。この宝物殿は広くありませんが、秀吉公ゆかりの品々が満載です。瓢箪型の馬印、大きな蒔絵櫃、枕、秀吉公の歯(!)、秀頼公の真筆など・・・。展示ケースのガラスもよく見ると少し波打っていて、貴重な大正時代のガラスであることが分かります。見逃せないのが、豊臣家の御用絵師である狩野内膳が描いた重要文化財『豊国祭礼図屏風』。秀吉公の七回忌にあたる慶長九年(1604)に豊国神社で催された祭礼の様子が描かれています。祭礼の盛大さ、当時の神社の広大さに驚きます。 次はいったん境内を出て、隣接する方広寺へ。ここには、あの有名な「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘がありました。高さ4.2m、外径2.8m、重さは82.7tもあるそうです。鐘を突く撞木も長くて(3~4mくらい?)、直径は20~30センチはありそうでした。全てが巨大すぎて撞くのが大変そうです。この梵鐘から創建当時の壮大さが分かりました。今回は伺っていませんが、方広寺創建当時の西門は三十三間堂の南大門として、南大門は東大寺の南大門として移築現存しているそうです。どちらもかなり大きいもので、写真からも当時の壮大さが窺えます。 ![]() ![]() ![]() 方広寺の次は、耳塚へお参りしました。古い洛中洛外図屏風などにも必ず描かれています。この塚は通りを隔てた側からも確認できるほどで、想像していたよりも大きいものでした。当時から現在まで、きちんと供養され続けているのが救いです。 本来の豊国神社は、現在の神社の東側にある阿弥陀ヶ峰山頂の豊国廟にあり、秀家公が関ヶ原合戦前に戦勝祈願と出陣式を行ったといわれています。今回は豊国廟へのお参りの代わりに、宝物殿裏にある馬塚にお参りしました。高さ2~3mほどもある大きな五輪塔です。徳川幕府により豊国神社が廃された後、秀吉公の供養塔とされていたそうです。今は周りが駐車場になっていて、少し寂しい感じに見えました。 次に、秀吉公のご正室・北政所ねね様ゆかりの高台寺へ(諸説ありますが高台寺様に倣って、ねね様とします)。 ![]() ![]() ![]() ![]() 掌美術館では、今年が「大坂の陣」四百年にあたるというので、大阪の陣前後に関する品々が展示されていました。館長さんに御挨拶し、その後の木下家に関するお話を教えていただきました。 圓徳院は伏見城の化粧御殿とその前庭が移築されたものだそうです。圓徳院の方のお話では、ねね様はここから高台寺へお参りし、秀吉公の菩提を弔うのが日課だったそうです。化粧御殿にしては少し地味に感じたので、圓徳院の方にお聞きすると、残念なことに当時の建物は幕末の戦火で失われたそうです。現在の建物はその後再建されたものですが、ねね様が心を慰めたであろう前庭は当時と変わっていないようです。 高台寺では開山堂、霊屋へお参りしました。開山堂の手前の天井は秀吉公の御座船、奥の天井にはねね様の御所車が用いられているそうで、とても豪華な造りで当時の豊臣家の権勢が偲ばれます。霊屋は内部全体に高台寺蒔絵が施されていて、とても美しいものでした。 最後に、京都文化博物館で開催されている「大関ケ原展」を見学しました。 今年は「大坂の陣」四百年と同時に、徳川家康公没後四百年でもあります。屏風や絵巻、合戦に関わった武将の書状や甲冑など多数の展示品が並べられ、見ごたえのある展覧会でした。そのなかでも小早川秀秋公の肖像画を拝見できた事が収穫でした。少し頼りなげな少年然とした有名な肖像画。ねね様の命によって描かれた、高台寺所蔵のもの。高台寺のご住職と話された岡山の瑞雲寺(秀秋公の菩提寺)のご住職のお話では、ねね様が手元で育てていた幼少期の風貌で、ねね様が抱いていた可愛らしい面影を描かせたんでしょう、との事。そう聞けば、このあどけなさも納得です。いろいろ言われていますが、残っている陣羽織や木像、戦場での逸話との印象が違いすぎると常々思っていました。秀秋公には堂々とした風貌の青年期の肖像画があります。こちらも公開されれば印象が変わるのにと思います。 今回は、豊国神社と高台寺にお参りして、ようやく豊臣家ご夫婦に御挨拶できた気持ちになり、何だかほっとしました。 宇喜多家の運命が変わった関ヶ原。参陣した武将で最も長生きしたのは秀家公。秀家公の領地を受け継いだのに、早くに亡くなってしまった秀秋公。秀家公は秀秋公に対して激怒していたそうですが、どちらも一生懸命だったと思うと切なくなります。お二人とも岡山にゆかりの方、これから少しずつでも顕彰していければと思います。 豊国神社の方、掌美術館の館長様、高台寺のガイドさん、貴重なお話をありがとうございました。 おふくの会 奥田 #
by o-fuku
| 2015-08-03 09:11
| ゆかりの地を訪ねて
本年も、岡山市中の菩提寺光珍寺さまにおいて、宇喜多直家公のご法要が厳かに賑やかに行われました。 ![]() バレンタインを前にしたご法要では、恒例となりましたお供えのチョコレートも並びました。 ![]() 昨年講演に来て下さった歴史漫画家大竹直子先生もお参りを。 ![]() 続いて、記念講演会「戦国の涼星宇喜多直家」を開催いたしました。 今年で5年目となりました講演会には、宇喜多家をめぐる歴史に想いを寄せる約90名の方々が参集くださいました。 講師は、岡山県立博物館主幹の内池英樹先生です。現在開催中の「宇喜多氏と長宗我部氏」にも触れながら、大変親しみやすく、宇喜多氏をめぐる歴史の読み取りについてお話くださいました。 ![]() 関ヶ原で負け組となった宇喜多氏に係るその後の「歴史」は、勝った徳川の時代のために記された「歴史」です。これまで語られてこなかった、宇喜多氏から見た歴史の姿を私たちは探していきたいものです。 ![]() 秀家公、豪姫様、「父上」のご法要に参列されて、ごりっぱなご挨拶いただきました! 「建国記念日」の今日、わが故郷備前岡山の国をつくられた宇喜多氏への敬意と繋がりを感じる一日でした。 (おふくの会) #
by o-fuku
| 2015-02-11 19:10
| イベント
あけましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 おふくの会は今年も直家公法要に続いて、講演会を開催いたします。 5年目を迎える今年は、戦国大名としての宇喜多氏、そして直家公について語っていただきます! 平成27年2月11日(水・祝) 10:30〜12:00 於:光珍寺(宇喜多家菩提寺) プログラム 10:30〜11:00 宇喜多直家公 祥月命日法要 11:00〜12:00 講演会「戦国の涼星☆宇喜多直家」 講師:内池英樹氏 岡山県立博物館 主幹 皆様のご参加、お待ちしております。 ![]() #
by o-fuku
| 2015-01-13 23:01
| イベント
秀家公のご命日に法要が営まれます。 今年は交流事業のお話も聞けるそうです。 ◆宇喜多家慰霊法要 日時: 11月20日(木) 宇喜多秀家 祥月命日 11:00~11:30 内池氏による開催報告の後慰霊の読経 ~11:40 藤波師による参列者へのお加持 ~11:50 内池英樹氏による交流展のご案内 場所: 光珍寺 宇喜多家菩提寺 〒700-0826 岡山市北区磨屋町6-28 tel:086-222-2028 http://kouchinji.net ※ご紹介 藤波師 千日回峰行者で酒井雄哉師の弟子 内池英樹氏 岡山県立博物館 主幹 岡山高知文化交流事業として特別展を企画。 「戦国大名 宇喜多氏と長宋我部氏」 期間:平成27年1月16日~2月15日 当日はどなたでも参列できます。おふくの会も参列いたします。 #
by o-fuku
| 2014-11-09 15:06
| イベント
![]() 今年も 宇喜フェス、お城の前の「おふく茶屋」で皆さまにお会いすることができました。ありがとうございました。 ![]() ![]() 岡山大学留学生の皆さんも立ち寄ってくれました! ![]() 午前は 甲冑の鉄砲隊 ![]() ![]() 午後は 宇喜多家の武者行列 ![]() ![]() ![]() 楽しゅうございました。 ![]() ふく。としましては、我が子秀家の築いた岡山城の前に一同が集まってくれること、とても嬉しく思います。 ![]() 一年に一度、お城の前で。 ![]() 皆さまありがとうございました。 おふくの会 一同 #
by o-fuku
| 2014-10-12 16:52
| イベント
深まる秋。今年も 宇喜ウキ★フェス 近づいてきました。 10月12日(日) 恒例となりました「おふく茶屋」出店いたします。 当日は、宇喜田秀家公築城の烏城のもと、甲冑行列、鉄砲隊の実演など、(下段では岡山のB級グルメも)にぎやかに集います。 おふく茶屋にて、お抹茶とお菓子でお待ちしております。 詳細は ===↓↓↓ http://www.okayama-cci.or.jp/ukita/ #
by o-fuku
| 2014-10-04 12:38
| イベント
おふくの会の恒例行事「宇喜多家ゆかりの地を巡る旅」、今年は5月17日に京都を訪れました。 今回は歴史漫画家の大竹直子先生とご友人が一行に加わってくださり、賑やかで楽しい旅となりました。 まずは、嵯峨嵐山にある清凉寺を訪ねました。 この地には、もともと嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルとされる源融(みなもとのとおる)の山荘があり、これを後に寺としたのが起こりだそうで、嵯峨でも有数の古刹とのこと。また、本尊の三国伝来の釈迦如来像は国宝で多くの人々の信仰を集めているそうです。 ![]() この寺院が、秀家公正室お豪様ゆかりの地であると知り、お話を伺ってきました。 慶長元年の大地震の後、お豪様が施主となり慶長二年(1597)に仁王門を再建されています。その確かな証として、お寺の霊宝館には仁王門の扁額が保存されていました。扁額には、「當寺楼門再興施主大相國姫君」「備前中納言妻為息災延命也」と記されています。 「大相國姫君」が秀吉公の娘、「備前中納言妻」が秀家公の奥様という意味です。ご自身と周囲の方々の健康と長寿を祈念した優しい御心が伝わってきました。この仁王門再建の後、豊臣家が主となり数年かけて諸堂が再建されています。 ![]() ![]() お豪様と清凉寺のご縁は、その後も続きます。 慶長五年(1600)の関ケ原合戦の後、お豪様は清凉寺の書院に隠棲されます。いつごろ清凉寺に落ち着かれたのか、はっきりと分からないそうですが、その時には既に落飾されたお姿だったと伝わっているそうです。其の為か、清凉寺の方はお豪様のお名前ではなく、「樹正院」様と呼ばれていました。お豪様は豊臣家にゆかりの深いこの寺院で静かに数年を過ごされ、前田家に戻られました。 ![]() また、清凉寺には秀頼公の首塚があります。豊臣家との深い繋がりから、こちらに納められたのだそうです。 残念なことですが、寛永十四年(1637)に起こった嵯峨の大火で、豊臣家が再興した諸堂はすべて焼失してしまったそうです。お豪様ゆかりの仁王門も書院も現存していません。仁王門に掲げられていた扁額のみが残り、お豪様の想いを今に伝えています。 嵐山で有名な湯豆腐をいただいた後は、大徳寺を訪れました。特別公開の塔頭や信長公木造など興味深いものがありました。今回は何も見つける事ができませんでしたが、特に戦国武将にゆかりの深い寺院として有名ですので、宇喜多家とも何か関わりがあったのではと思っていますが、どうでしょうか。 最後に、聚楽第跡を訪れました。 「聚楽第跡」石碑の見学と、浮田町の散策が目的です。 ![]() ![]() 浮田町に着いて直ぐに、「浮田町」と書かれた町の掲示板を見つけて興奮してしまいました。私たちが「浮田松!浮田町!」と大騒ぎしているのを見て、放っておけなくなったのでしょう。偶然いらした住民の方が声をかけてこられました(おふくの会はいつも何方かに助けられます)。旅の目的をお話しすると、浮田町の旧街割り図や現地の新聞記事、聚楽第のパンフレット等いろいろな資料を見せてくださいました。実際に御屋敷のあった辺りや、住民の方しか知らないような詳しい説明をしていただき、本当に秀家公とお豪様が(もしかしたら、おふく様も・・・)住まわれていたんだと実感しました。 宇喜多家の屋敷跡であるという事だけで何の手掛かりも無かったのですが、現地の方に親切にしていただき(しかも浮田町の住民の方に!)、本当に京都に来てよかった、と私たち一行は大変感激したのでした。 ![]() 今回は、お豪様にとって深い想い出の地を訪れる事が出来ました。 お豪様の祈りが通じたのか、秀家公は長寿を全うされました。二度と会えなくても、生涯、心は通じ合っていたお二人。秀家公と引き離されて辛く哀しい日々を過ごされた場所、秀家公と幸せな日々を過ごされた場所。お豪様の光と影を感じた旅でした。 清凉寺様、浮田町の熊谷様、本当にありがとうございました。 おふくの会 奥田 #
by o-fuku
| 2014-07-13 01:14
| ゆかりの地を訪ねて
6月22日、(私が属しております)岡山市観光ボランティア活動連絡会の有志の皆様と岡山県北の勝央町太平台にある“高母平”に行ってまいりました。 勝央町平地区の住民有志でつくる「戦国のうゑ月たいら邑戦国史跡調査協議会」の皆様とのご縁は、今年5月8日付山陽新聞のコラム「滴一滴」(岡山一郎氏執筆)の記事をきっかけに、光珍寺さまよりご紹介いただいたことから始まりました。 高母平山には、宇喜多直家と後藤勝基(三星城主)との合戦で亡くなった侍方を、敵味方なくお祀りした供養碑があると伺い、お参りすることが目的の訪問です。 前日夕方から当日の午前中まで、岡山には珍しいくらいの激しい雨でしたが、勝央町に着くと同時に不思議に雨は止みました。協議会会長の植月さま、お世話役の赤木様をはじめメンバーの方々が出迎えてくださいました。水嶋勝央町長もお忙しい中、駆けつけてくださって勝央町のお話をしてくださいました。(過疎化に悩む地域が多い中、ここは人口が増えているそうです。生活用水、畑そして工業用水それぞれのために3つのダムがあり、水が豊富でお米が美味しく、大変生活がしやすいとのことでした。”坂田の金時さん“の終焉の場所でもあります。大変前向きなエネルギッシュな町長さんで、勝央町のこれからが楽しみです。) そうして、高母平へいよいよご案内いただくこととなりました。霊山あるいは聖地とでもいいましょうか、昔は村人しか入山できなかった大切なところであったと感じました。身を清めて入山するための境があったのでしょうか、その場所を証明するかのように2つの大きな礎石が足元にありました。これは山頂の神仏への参道門石といわれております。険しい、落ち葉に覆われた古い石段を杖を使って上ります。地元のみなさまが草を刈り、歩きやすいように道をつくってくださっていました。石段をのぼり切れば土塁が道を横切り、ここからが神仏の区域の境界と思われました。古墳群があり土塁と思われる土手、石垣、井戸の跡、古い祠、雨乞いのための広場、弘法大師が祀られているお堂。大変神秘的な空間です。山頂へ向かいますと樹齢100~200年以上の木々の間から大きな岩が見えました。これは”牛岩“とよばれるもので、上部に大きな石の板碑が差し込まれておりました。これが供養碑でした。 ![]() この供養碑は天正7年 三星合戦 (城主 後藤勝基 と宇喜多直家との戦い)で勝利した宇喜多直家が家老岡豊前の守家利に命じ敵味方なく戦死者をいたみ、お寺(現在津山に移転の経王寺)を建立、そして高母平山頂東面の通称“牛岩”の上に板碑(日蓮宗文字曼荼羅)と不動明王像を供養として建立と伝えられているのです。 後藤勝基は直家公の息女千代姫の夫、つまり直家公の婿ですが、不和を生み避けられぬ戦いとなりました。1579年、勝基は武運つき42歳の命をたちます。千代姫は息子とともに吉見の医王山城へ平を通って逃げます。途中宇喜多軍からの猛攻撃を受けるのですが、実は鉄砲には弾を入れない空砲であったといわれております。無事に2人を逃がすため直家公が命じたのです。 その後、夫勝基の自刃を知った千代姫は後を追いますが、息子は逃げのびて毛利家に仕えたとも言われております。悲しい結末となりますが、直家公の人間としての優しさを感じますのは、私一人でしょうか。 赤木様の素晴らしいご説明に感激し、戦国の世を生き抜いた宇喜多一族をはじめ、後藤一族、岡一族を思いながら下山しました。 ![]() 今回の旅で感じましたことは、伝承の中にこそ”真実“があるのではないかということです。村の方々が代々受け継いでいらっしゃるお話からは、今まで知らなかった”直家公“の優しさ、千代姫と勝基との夫婦愛、戦国の世にも家族を愛する気持ちは今とかわらないことを確信いたしました。 私たちは「梟雄」と恐れられた直家公そして宇喜多一族の真実の姿をこれからも探求していきたいと思います。今年の大河ドラマ「軍師官兵衛」には、残念ながら納得できない場面が多々あります。(ドラマですが)織田にとって宇喜多家の存在がどんなに重要であったか、「おせん」なる女性を秀吉の閨に行かせなくとも宇喜多軍が織田軍へ味方すると表明したことは願ったりかなったりだったはずです。備前の国が同盟を願い出たことが高松城の水攻めを成功させ、豊臣氏の天下取りの足掛かりとなったことは間違いない事実です。~高母平で出会った宇喜多直家公の歴史は、ドラマで描かれる歴史との違いを強く感じさせるものでした。 ![]() 植木会長をはじめ赤木様、皆々様に心より御礼申し上げます。素晴らしい交流ができましたこと、まさに「おふくさま」が望んでいらしたことでしょう。これからもこの絆を大切にさせていただきます。皆々様のご健勝ととともに勝央町のますますのご発展をお祈り申し上げます。 ありがとうございました。 おふくの会代表 杉山真子 26年6月28日 #
by o-fuku
| 2014-07-02 21:52
| ゆかりの地を訪ねて
バレンタインは「おふくの会」結成の記念日でもあります。 今年も、直家公法要に際して記念「軍議」を開催しました。 ![]() 昨年に続いて、軍師に歴史漫画家大竹直子先生をお迎えしました。 大竹先生によって戦国の人々の人間像が生き生きと蘇ります。 ![]() 話題の軍師官兵衛と宇喜多家の絡みもお話いただきました。 浦上家のご子孫方や宇喜多家家臣のご子孫もお集まりくださり、熱い軍議となりました。 「2代目秀家」さんが宇喜多の築城のすごさなどを熱く語る一幕もありました。 ![]() 先だって行われたご法要では、今年も直家公への数多のチョコレートがお供えされました。 ![]() ![]() おふくの会特製の家紋・旗印チョコレートケーキも。 宇喜多家の築いた備前岡山の街を愛する皆様方と良き法要、良き軍議を行うことができました。 ![]() 大竹直子先生ありがとうございました。 #
by o-fuku
| 2014-02-11 21:09
| イベント
#
by o-fuku
| 2014-01-21 16:38
| イベント
11月20日、秀家公の命日にあたるこの日、光珍寺さま(宇喜多家の菩提寺、岡山市中) で行われた宇喜多家慰霊法要に参列しました。 今年は、宇喜多家史談会、亀山城保存会、下土井のおふくさま顕彰会、おかやま観光コンベンション協会、岡山商工会議所など、岡山という城下町を築いた宇喜多家を顕彰する活動に尽力されている皆様がとりわけ多数参列されていました。もちろん、我々おふくの会も。 おふくの会は、先月の”宇喜フェス”でお披露目した創作和菓子「ふく to なお」をお供えしました。直家公・秀家公には事後報告になってしまいましたが、「美味い!」と褒めてくださっていたはず・・ また、この日は初代、2代目、そして今年度の「秀家・豪姫」達も参集し、にぎやかな法要となりました。直家公、秀家公、そしておふくさまもお喜びだったのではと思う次第です。 ![]() #
by o-fuku
| 2013-12-15 23:31
| イベント
晴れやかな青空にはえる岡山の誇り 烏城 そのお城のたもとで 一年に一日限りの”おふく茶屋” 今年も出店させていただきました! ![]() たくさんのお客さまに お茶と和菓子を通じて お会いすることができたことを うれしく思っております 例年通り 地元の老舗お菓子処みづゑさんに美味しいお菓子を創っていただきました 今年は めずらしい「白あん」の薯蕷「おふく」と お抹茶/グリーンティを皆さまに楽しんでいただけました ![]() また お土産用に この日限りの特製和菓子のセット「ふくtoなお」も販売させていただきました 宇喜多家旗印の焼印入り お楽しみいただけたでしょうか ![]() おふく茶屋 ご来店ありがとうございました また来年も お城のたもとでお会いしましょう ![]() #
by o-fuku
| 2013-10-13 18:40
| イベント
恒例のお知らせです! 10月13日(日)「宇喜多秀家☆フェス」に、今年もおふく茶屋を出店いたします。 本年は、好評につきお土産用の、おふく茶屋限定・創作和菓子を復活販売もいたします。 こちらは当日50個限りで、直家公・おふくさまをイメージした(宇喜多家家紋入り!)のお菓子です。 お城のたもとで、美味しいお茶と特製お菓子をご用意して、皆様をお待ちしております。是非お立ち寄りください。 皆様にお会いできるのを楽しみにしております。 宇喜多秀家☆フェス 通称「ウキ・フェス」についてはこちらから ↓ http://www.okayama-cci.or.jp/ukita/ #
by o-fuku
| 2013-09-27 10:26
| イベント
この度、吉備中央町下土井にて地域住民の皆様が中心となり、おふくさまを顕彰し隠棲地を伝承するため「おふくの方さま顕彰碑」が建立されました。 ![]() 9月14日(土)、石碑建立に尽力された関係者、土井家ご子孫、吉備中央町の山本町長、亀山城保存会、おかやま観光コンベンション協会関係者、二代目秀家・豪姫、そして下土井地域の皆さまが集まり、盛大に除幕式が執り行われました。私たち「おふくの会」も、嬉しく晴れがましい気持ちで参列させていただきました。 おふくさまの隠棲地は、高田城落城の際おふくさまを保護した土井家の屋敷跡です。加茂大祭で知られる総社宮の近く、県道から細い道を上がると辿りつく地蔵尊「横山様」の辺りと推察されるそうです。地蔵尊「横山様」前の広場に、顕彰碑は建立されていました。 厳かに神事が執り行われた後、披露された顕彰碑はとても立派なものでした。 「おふくの方さま隠棲の地」と刻まれた石碑と、若々しく可愛らしいおふくさまを備前焼で象った石碑は、台座を加えると高さ約三メートル、幅五メートルにもなるそうです。横には、瓦屋根付きの立派な案内板が建てられていました。また、おふくさま所縁の品として高田城三浦家家紋入り瓦(!)、直家公時代の岡山城の石が付されていました。 ![]() 除幕式では、「おふくの会」を代表して会長の杉山が、女性の目線で考える「おふくさま」像について講演させていただきました。 おふくさまについては資料が少なく諸説ありますが、ただ流されるままに生きた哀しく弱い美貌の女性、という方ではないと思っております。岡山の基盤を作った直家公・秀家公を二代に渡って支えた方なのですから、自分の意志で自分の脚で人生を歩む芯の強さを持ち、美貌を驕ることなく、優しさ穏やかさに満ちた女性だったのではないでしょうか。この度の顕彰碑建立についても、きっと優しく温かく見守っていらしたと思います。 ![]() 式後には、おふくさまも心願したとされる「土井神社(玉藻霊石)」にお参りいたしました。先に記した総社宮、横山様地蔵尊とともに歴史の古い由緒ある寺社です。私たちもこの日にお参りできた御礼を申し上げました。 また、地域の皆様によって手作りの饂飩と地元産ピオーネで心温まる「おもてなし」を受けました! 下土井の皆様の団結力、実行力には本当に驚くばかりです。発起人の中山様に最初に顕彰碑建立のお話をお聞きして、僅か六ヶ月で今回の除幕式の日を迎えたのですから。 2010年「おふくの会」を発足して最初に皆で下土井を訪れた際には、土井家の屋敷跡も何も確認できませんでした。この度の顕彰碑建立によって、誰にでも判るように所縁の地が示された事を本当に嬉しく思います。 除幕式では、おふくさまのご縁で、郷土歴史研究家の方のお話を伺ったり、関係の方々とお会いすることが出来、「おふくの会」にとっても実りある楽しい一日となりました。おふくさま、そして下土井の皆様に感謝いたします。 多くの方々の「心」で建立された「おふくの方さま顕彰碑」、是非たくさんの方に訪れていただきたいと思います。 ![]() おふくの会 奥田 #
by o-fuku
| 2013-09-27 10:22
| イベント
7月11日、関ヶ原、矢野家を訪ねて岐阜に行ってまいりました。商工会議所の皆様とご一緒させていただいた旅です。今夏の猛暑の始まりのような暑い1日で、矢野家の方々にお目にかかりましたときは、汗だくでした; が、みなさまのお心のこもったおもてなしに生き返った心地でした。この旅で学んで参りましたことを書かせていただこうと思います。 *** 矢野家は矢野安芸守通義が美濃国加茂郡切戸村に住まい、その子孫、矢野五左衛門貞重が美濃の国守護代斎藤利安(白樫城主)の家老として白樫に住み、土着し、郷士(地侍)となった。1505年に没す。 宇喜多秀家公を匿った矢野五右衛門重昌は貞重より数えて5代目で、約250石を領す郷士であった。 慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで落人となった宇喜多秀家公を伊吹山の東側の粕谷川筋の山中で、落人狩をしていた五右衛門一行がみつける。しかしながら、あまりの気高さと流浪の哀れな様子にうたれ、白樫村の屋敷に匿うことにした。詮議の厳しい中、約40日間屋敷内の土室に匿った。その間、秀家公は歌を詠み、月の夜には近くの河原で乗馬などをして過ごされたという。又、側近の進藤三左衛門が宇喜多家の家宝(脇差 )を携え、本多忠勝に「秀家の伊吹山中での自害」を自訴し、詮議の目を免れた。その後、五右衛門は秀家公を病人に仕立て、大阪の備前屋敷に無事送り届ける。矢野五右衛門は秀家公隠匿後、慶長12年(1607年)白樫の地で亡くなるが、秀家公の自首後も咎を受けることはなかった。その後矢野家は西北児島筋の大庄屋として苗字帯刀を許され、明治維新まで勤められた。 *** 現在のご当主(31代)矢野紀雄氏そしてご家族のみなさまにおめにかかりました。秀家公が助けられたことに感謝を申し上げ、残された兜仏、刀、豊臣秀吉公朱印状を見せていただきました。 矢野家は代々、秀家公及び関ヶ原合戦戦没者の供養を続けていらして、私共もお参りさせていただきました。 ![]() 穏やかでお優しい矢野ご夫妻に、400年もの間、ご先祖様と同じように秀家公をご供養くださっていることに感謝申し上げ、お暇いたしました。 「秀家公はどんなお方だったのでしょうか?」と質問いたしましたところ、「大変おだやかで、凛々しい方だったそうです」とご返事が返ってまいりました。 次の日、関ヶ原へ行ってまいりました。あちこちに軍旗がたなびき、陣太鼓が聞こえてくるようでした。 地元のボランティアのかたの案内で笹尾山(石田三成の陣址)、南天満山の麓、 天満神社の境内にある宇喜多家陣址に登りました。ここはもっとも激しい戦いが繰り広げられた場所の一つです。 今は静かな境内で、蝉しぐれの中、お参りいたしました。 ![]() 松尾山(小早川秀秋の陣跡)大谷吉継の陣跡は時間がなく行くことができませんでしたが、次回の楽しみにしたいと思います。 今回の旅で感じたのですが、秀家公を匿われた矢野家、鹿児島の平野家 そして八丈島の皆さま方に共通するもの――それは”人情“です。古臭い言葉になりつつありますが、日本人が大切にしてきたものだと思います。秀家公も大変な困難に遭遇しながらも84歳まで生きのびられたのは、ご自身が”人情“を大切になさった方だからでしょう。 ![]() 矢野家のみなさまにこの場を借りていま一度御礼を申し上げます。そして、このブログを読んでくださった皆様にも感謝申し上げ、この旅の報告は終わりと致します。 感謝。 おふくの会 (杉山) #
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| 2013-08-25 22:43
| ゆかりの地を訪ねて
爽やかな皐月晴れとなった5月17日、兵庫県朝来市を訪れました。 目的地は「天空の城」「日本のマチュピチュ」といわれ、最近人気の竹田城跡です。 何故"おふくの会"が朝来市へ?と思われるかもしれませんが、竹田城の最後の城主、赤松広秀公に宇喜多家の姫君が嫁いでおられます。宇喜多家にご縁のある土地なのです! まずは城山の麓にある「山城の郷」で昼食を・・・と思ったのですが、“貸切”の文字が!!周囲にお店は無く困っていたところ、施設の方のご厚意で無事に食事をとることが出来ました。心もおなかもほっこりした後は、2階の資料展示室へ。こちらには竹田城の模型や年表が展示されていましたが、私たちにとって興味深かったのは、赤松広秀公に関する略年表などの資料でした。 「近代儒学の祖」といわれる藤原惺窩と深い交友を持っていたこと。関ヶ原の役で西軍敗戦の後、東軍についたにも拘らず一人だけ切腹を命じられたこと。宇喜多秀家公の妹姫(姉という説のあり)と結婚されたのは二十六歳ごろだったこと。 赤松公について、あまり知らないまま当地に来てしまったのですが、登城前に少しでもどのような方だったのか知ることが出来たのは本当に良い事でした。学問好きで文人肌の穏やかな方、戦国時代に生まれていなければ学者になっておられたのでは、という印象を持ちました。 ![]() さて、いよいよ登城です。ガイドさんと合流し、説明を受けながら大手門へ向かいます。石垣が見えない所でも、大きな竪堀や石取場など当時の名残があちこちに残っていました。舗装された比較的緩やかな坂道でしたが、暑さもあり辛さを感じながら登ること約15分、やっと石垣が見えてきました。大手門手前で振り返ると小さな道が見えたのでガイドさんにお聞きしたところ、本来の登城道だそうです。観光客が登る道よりもずっと急峻で、40分くらいかかるので登山の準備をしないと無理ですよ、との事でした。そんな道を登っていたと聞いて唖然としていると、大手門に到着しました。 ![]() 見事な枡形虎口の大手門を抜け、北千畳という所に出ると城下が見渡せます。正面には朝来山が見えます。朝来山には赤松公が植えた山桜が今も咲いています。周囲の木々よりも深い緑色をした山桜は、城内から眺められるように少しずつ植えさせたものだそうです。赤松公が愛でた景色は、現在は「立雲峡」という桜の名所となっています。 周囲を見渡しながらガイドさんが説明してくださったのですが、朝来山と竹田城の間には円山川と街道が通っており、ここから北へ行けば豊岡や丹後、南へ行けば播磨、東へ行けば丹波、と交通の要衝に位置し、生野銀山を領する事からとても重要な地だったそうです。所領は約二万二千石で多くはありませんが、そのような重要な地を任された赤松公、豊臣秀吉も認める才覚をお持ちだったのではないでしょうか。 ![]() 北千畳には溜池跡がありました。城内に井戸を掘っても水は出ないので溜池を作り、三の丸下にある井戸から水を汲んでいたそうです。どうやって城内に多くの水を運んでいたのかはっきりと分かってないのですが、竹田城はとても軍事的に考えられた城だそうです。「赤松公は文人肌で学問好きだが、このような素晴しい山城を築く軍略家としての才覚もお持ちであった。当時の最先端の学問を究めた武将だった」と、興味深い話をお聞きしました。 竹田城の石垣は、近江坂本の石工衆「穴太衆」によって築かれたものです。当時二万二千石の所領でこの城郭を築くことが出来たのは、強力な支援があったと考えられ、豊臣家による天下普請があったと推察していいのでは?との事でした。北千畳から三の丸、二の丸を結ぶ石垣には、敵を殲滅する工夫として屈曲が見られます。竹田城の石垣は、牛蒡積み、算木積み、鎧積み等の石積みが見られるのは勿論ですが、縦に巨石を立てて石垣の角を作るなど、他の城ではあまり見られない工夫が随所にあるそうです。 ![]() 赤松公の大きな遺産である竹田城跡、人気が急騰する前までは城内は美しい芝生の緑に覆われていたそうです。今は人が入り過ぎたために芝生は枯れ、二の丸、本丸には瓦片が散乱していました。当時の瓦だそうです。ガイドさんはさらりとお話しされていましたが、当時の瓦がそのまま残されていることに驚き、手に取って建物があった往時を偲びました。本丸から下った南千畳には、孔子廟と講武所があったそうです。赤松公も家臣の方々も文武両道だったのでしょう。 城跡からの眺めは評判どおり素晴しい景色でした。ここ竹田城跡の素晴しい所は、城下だけでなく、北千畳、南千畳、本丸など城内それぞれの場所がパノラマのように広がる景色です。南千畳から振り返った本丸の姿もまた見事でした。 ![]() 竹田城跡の見学は1時間半の予定だったのですが、本当に素晴しかったので、ガイドさんの熱心な説明を聞きながらじっくり見ているうちに2時間以上経っていました・・・!! 急いで城下の寺町通りに向かいます。この辺り一帯は赤松公の居館だったそうです。まず常光寺を訪れ、ご住職が撮影された竹田城跡の写真を見せていただきました。 そして、法樹寺で赤松公の墓前にお参りいたしました。このお墓には、赤松公自刃の際、家臣に下げ渡された片袖が納められていると伝わっているそうです。すぐ近くには、赤松公によって北陸から招かれた陶工たちの墓がありました。今も地元の方に供養されています。 ![]() 最後に、法樹寺の裏手にある赤松公の居館跡に行きました。発掘調査され、平成八年に国史跡に指定されたそうです。発掘品は近くの但馬まほろば館に展示されているそうです。今は何も残っていませんが、宇喜多家の姫は確かにこの地で生活しておられたのです。発掘品の中に十字紋の入った瓦があるそうです。もしかしたら、赤松公か、赤松公に近しい方がキリシタンだったのかもしれない、との事。そういえば、豪姫もキリシタンでしたね。偶然とはいえ、何か不思議なご縁を感じました。 ![]() ガイドさんにお聞きしたお話では、赤松公は領民を大切にし、年貢を三割にするなど当時としては驚くほど年貢率を低くしたり、年貢を免除したりしたのだそうです。また農耕だけに頼らなくてもいいように養蚕や漆器作りを奨励し、後々まで領民に尊敬され慕われたといいます。赤松公のお墓は養父市という所にもあります。赤松公を慕う領民が供養墓を作ったのだそうです。 赤松公は自刃の際、城内の金品を全て家臣に分配するよう遺言されたそうです。そして潔く自刃されました。若き日に備中高松城攻めに参陣し、清水宗治公の潔さに感銘を受けたことが影響しているのでは、とガイドさんが言ってくださいました。また岡山とのご縁を感じ嬉しくなりました。領民を愛し、文学を愛し、桜を愛でた赤松公。きっと爽やかで穏やかな方だったのではと想像いたします。 宇喜多家の姫にとっても、優しく頼もしい旦那様だったのではないでしょうか。穏やかでお幸せな日々を過ごされていた事でしょう。関ヶ原の役が起こるまでは・・・。 赤松公が自刃された後、宇喜多家の姫はどうなったのでしょうか。 赤松公に嫁いだ宇喜多家の姫は、竹田城下では、「ちづる姫」と呼ばれているとガイドさんに教えていただきました。秀家公の妹姫ですと「おふく様」のお嬢様なのですが・・・。伝承かもしれませんが、まさか姫の名前が聞けるとは思っていなかったので感激してしまいました。関ヶ原の役後、城代家老の機転により「ちづる姫」は北方面の漁港に近い村に無事逃れ、隠棲の地でお嬢様を出産されたそうです。姫とお嬢様が無事とお聞きして、それだけで安心いたしました。赤松家の嫡流は絶えてしまいましたが、お嬢様のご子孫は龍野城主に仕えたと言われているそうです。 また上記の城代家老は円山太郎右衛門という人で、赤松家の行く末を見届けた後、岡山の池田家に召し出され家老にまで出世したそうです。 今回の旅では岡山との不思議なご縁を感じました。 高松城攻め、瓦の十字紋、円山川(岡山に円山という地名があります)。岡山に来ることになった家老の円山氏。 そして今も竹田に残る赤松公の遺産の大きさに感動いたしました。 「山城の郷」の方々、常光寺のご住職、そしてガイドをしてくださった川並さん、本当にありがとうございました。 (おふくの会 奥田) #
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| 2013-06-16 11:09
| ゆかりの地を訪ねて
記念講演会「歴史漫画家の見るおふくさまと宇喜多家の歴史」 盛会のうちに終了しました ありがとうございました! 宇喜多直家公の法要では、恒例となりました全国からのチョコレートのお供えに加えて、おふくの会手作りの “特製チョコレートケーキ”もお供えされました。 ![]() そして、いよいよお迎えした歴史漫画家 大竹直子先生 の講演です。 大竹先生の1時間にわたる熱く、温かく、いきいきと時空を超えるお話。 宇喜多直家公、おふくさま、秀家さまが生きた日々――心躍らせたり、涙したり、人としての切ない思いや喜びや痛みを私たちも少し分かち合えたような気持ちで、大竹先生の描く宇喜多家の人々を近く感じたひとときでした。 特に・・・ 直家公の人間味あふれる心情 直家公に静けさや温かさをあげられた おふくさまの心の柔らかさ そのお二人の姿などを、普通は頭の中で想像してみるのですが、この度は、大竹先生が描かれたお二人の姿が素敵に目の前にあってとてもリアルなのです・・・ 結論として: 世に有名な 戦国の美カップルと言われる 宇喜多秀家・豪姫 の先を行く、勝るとも劣らない 美しいカップルが 父母である ☆直家・おふく☆ のお二人であったに違いない、ということを確信した一日でした そして、ご法要の日に、このような私達の学びを 宇喜多直家公もきっと喜んでいらっしゃるに違いない、と信じたいと思います。これも「おふく(の会)」のはたらきじゃ、と仰ってくださる声を聞いたような・・・・。 ![]() 会の終りに、大竹直子先生とおふくの会一同で記念の写真を撮りました ![]() 秀家さま・豪姫さまも一緒に↑ 大竹先生、最後まで一枚一枚サイン色紙を丁寧に描いてくださいました。 歴史の中でつながっていく人々のお話は尽きず、まだ寒い備前岡山の街の一角(光珍寺さま)で熱く心ときめかせた一日でした。本当にありがとうございました。 おふくの会 一同 #
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| 2013-02-11 22:35
| イベント
あけましておめでとうございます とのご挨拶もそこそこに、新年も刻々と時を刻んでおります。 今年も、私どもにとって特別の日バレンタインが近づいて参ります。 バレンタイン・・・すなわち、我らが殿、宇喜多直家公のご命日の法要、イコール私ども「おふくの会」の創立の日でございます。 そこで、おふくの会が無事に3周年を迎えた記念として、本年も光珍寺さまでのご法要に続いて、講演会行事を下記のように催したいと思っております。 記 おふくの会 3周年記念講演会 歴史漫画家 大竹直子の見る 「おふくさまと宇喜多家の女たち」 平成25年2月11日(月・祝) 12:00 於:光珍寺(宇喜多家菩提寺) 岡山市北区磨屋町6-28 プログラム 12:00~12:30 宇喜多直家公 法要 チョコレ-トをお供いたします。 13:00~14:00 “軍師”によるお話 歴史漫画家 大竹直子の見る 「おふく様と宇喜多家の女たち」 14:00~15:00 “軍議” 宇喜多秀家・豪姫*を交えて座談会 終了後 撮影会とサイン会 [大竹直子さんによる宇喜フェス2012ポスター] ![]() ☆講師紹介~ 大竹直子 (おおたけなおこ)先生 埼玉県在住の漫画家。1993年デビュー後、主に日本の時代・歴史漫画を中心に創作活動。確かな時代考証と史実に裏付けされた耽美的な作風が特徴。大の時代、歴史小説通であり、「戦国無頼」(松文館web)で宇喜多直家の生涯 「兇星」を連載。 宇喜多家史談会員。 大竹先生のお話、いまから待ち遠しいです。 当日皆さまとお目にかかるのをおふくの会一同楽しみにしております。 直家公ご法要にはチョコレートのお供えをよろしく。 お待ち申し上げます。 #
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| 2013-01-15 14:10
| イベント
24年11月10日――宇喜多秀家さまが最期を迎えられた八丈島へ行ってまいりました。 今回は船の旅で、いよいよ目と鼻の先に島が見えた後、途中からは漁船に乗りかえて島を目指しました。波が高く上陸できないかもしれないと心配しましたが、予定より1時間程遅れで無事降りたつことができました。 今年の“宇喜フェス”に参加してくださった“八丈島樫立踊り保存会”の方々が出迎えてくださいました。島のバスガイドさんも運転手さんも“宇喜フェス”に参加された方々で、話もはずみました。 「八丈島は流人の方々によってつくられた島です。流人の第一号が秀家さま一行で村人たちは余りにも立派な方々なのに驚いたそうです。その後も政治犯であったり、芸術家であったり、技術者であったり、宮中の女官であったり、わたくしたちは流人の方々からいろんなことを学び、教わりました。ですから、八丈島は流人の方々による政治、文化そして経済を取り入れた島です」~ガイドさんのお話です。 この島には“流人墓”がありません。島民は流人達を大切に世話し自分たちの家族の一員として自分たちの墓に入れてあげたそうです。“八丈島は鬼の島かと思っていたら情けの島だった”と、流人達が歌った民謡がいまだに残っていて、植木屋さんで民謡家のかたが歌ってくださいました。 秀家さまのお墓にお参りした後、お住まいの跡と言われている場所を訪ねました。 今は個人の所有地になっておりますが、屋敷の庭の跡にお秀家さまお手植えの蘇鉄がありました。そして秀家さまの菩提寺である宗福寺をたずねました。今は浄土宗だそうですがその当時は真言宗だったようです。秀家さまについては「優しい方であった、立派なかたであったと聞いております」とご住職。 八丈富士噴火の2 、3年あとに秀家さま御一行到着なので、さぞかし大変な日々を過ごされたと思います。南原千畳敷は溶岩が流れ落ちてできた溶岩台地で、海に沿って長さ500m、幅100mの範囲に、黒々とした玄武岩が広がり,荒涼とした世界を形成しており、このようなところに一行は到着され、さぞかし心細くていらしたでしょう。土地がやせていて主食である米はもちろんイモ類も作れず、“あしたば ”と言われるものの根っこを主食代わりにされたそうです。“あしたば”のいわれは,根っこを一番に食べ“あしたはっぱ”を食べるというところからきたそうです。二年に一回、前田家より荷が届いた折には秀家公は島の人達にも米など分け与えられたようで、船の到着を島人たちも心まちにしていたようです。 秀家公は父君である直家公の強靭さと母君である円融院(おふく)さまの優しさを兼ね備えられたかたです。戦国時代には珍しく豪姫様とは大変仲のいいご夫婦で、お二人の愛が、お子様やお付きの方々、そして八丈島の人たちを包まれたのでしょう。島民に慕われ、名を久福と改め、84歳でお亡くなりになっております。 この旅を終え感じましたことは“命の尊さ”です。その人に与えられた人生を懸命に生き抜かなければならないということです。秀家公はそのお手本を見せてくださっているとおもいます。八丈島の皆様に感謝もうしあげます。ありがとうございました。 (おふくの会 杉山) #
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| 2012-11-25 18:59
| ゆかりの地を訪ねて
10月7日(日) 岡山城下 第四回宇喜多秀家フェスティバル 「おふく茶屋」 を今年も出店しました! 爽やかな秋晴れの一日、たくさんのお客さまにお越しいただきました。 ![]() 秀家公も 400年の時を経て お城に集う備前岡山の人々のたくさんの笑顔に さぞや驚き 喜んでおられるのではないでしょうか 武者たちが おふく茶屋の前を 通って行きます・・・・ ![]() 冷たいお抹茶(グリーンティー)と創作和菓子「ふく」が、皆さまに気にいっていただけて、「ふく」は お昼すぎに完売しました。4時の閉店まで お抹茶やグリーンティでお客さまをおもてなししました ![]() 素敵な一日 皆さまとの出会い ありがとうございました 来年も きっと・・・ お会いできますように ![]() #
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| 2012-10-08 22:06
| イベント
今年もこの季節がやってきました 今週末 10月7日(日) 岡山城前庭にて おふく茶屋 今年も出店します! 美しい 創作和菓子「ふく」 と美味しいお茶を用意してお待ちしております 昨年のおふく茶屋風景 ![]() 今年は 冷たいグリーンティーも用意する予定です 皆様にお会いできるのを楽しみにしております どうぞお立ち寄りください 宇喜多秀家フェスティバルについては ↓ http://www.okayama-cci.or.jp/ukita/ お天気もよさそうですよ! (おふくの会一同) #
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| 2012-10-05 15:10
| イベント
8月1日、牛窓北小学校の谷原校長さまからの依頼で、「おふくさま」についての講演会を“ピュアリティーまきび”でさせていただきました。ところが、講演の途中でわたくしが体調を崩しまして話が途中で終わってしまい、皆さまに大変ご迷惑をおかけした次第です。担当の方の機転で大事にいたらず感謝いたしております。 私としましても、申し訳ないのはもちろんですが残念でした。8月某日、お詫びかたがた牛窓北小学校をお訪ねいたしました。この訪問で、あまりに素敵な学校と環境はもちろんですが、谷原校長のお人柄に触れて感動いたしましたので、ここで紹介させていただきます。 牛窓北小学校は岡山県瀬戸内市牛窓町の北部に位置し、錦海湾を望む畑作のさかんな農業地域にあります。明治5年に開校し、明治8年に山田方谷先生が詩経のなかの“日就月将”を引用して「就将学校」と命名されたそうです。「就将」とは“日進月歩”の意味だそうです.方谷先生直筆の額があり、初代校長からの写真が飾ってあり、身が引き締まる思いでした。牛窓北小学校のモットーである“就将の心を温(たず)ねる”を引き継ぎながら、子供たちに新しい息吹を注ぎたいと、日夜アンテナを張りめぐらせて頑張っていらっしゃる方が谷原校長です。「いろんな経験をさせ自信を持たせ、卒業しても本校の生徒であることを誇りに故郷を愛し、日本人として世界に羽ばたいてほしい」と熱く語られる先生は大変魅力的な女性です。 いろんな問題を抱える教育界ですが、こんな素敵な先生がいらっしゃる限り大丈夫だなと思いました。昨今は合併で古い学校が無くなっておりますが、大変残念です。このような学校こそが、今、子供たちに必要なのではないでしょうか? 「おふくさま」の講演については後日に譲るとして、今回おふくさまが谷原先生を私に紹介してくださったのだと思います。おふくさまは岡山の女性の中に脈々と生きていらっしゃるように思います。谷原先生のご活躍を心よりお祈りいたします。 もう一人の女性をご紹介いたします。寒風陶芸会館の館長さんの小田さんです。岡山のご出身、東京でお仕事をなさっていらしたようですが、「備前焼の里は知っていたが“寒風”須恵器の里を知らなかったのが悔しい」と一大決心で岡山に戻り、このお仕事を引き受けられたとのこと。地理的には北小学校の近くですが、山の中ということもあり少し見つけにくいのですが、とても素敵なところです。備前焼のルーツでもある須恵器が作られていたところです。「時実黙水氏が収集、確認調査した須恵器の出土品を中心に展示、広いスペースで土ひねりができます。夏はクワガタ、カブトムシ、6月は蛍、春は桜、秋は紅葉、丘を登れば出土している須恵器を手に取ることもでき、親子で楽しんで頂けるところです」と小田館長は目を輝かせていらっしゃいました。「これからいろんなことを計画したい」と夢を語られる館長も素敵な岡山の女性です。寒風陶芸会館(0869-34-5680) 今回は講演会ではなく牛窓への旅となりました。思いがけない小旅行で「おふくさま」とは関係ないと思っておりましたが、お二人の女性にお目にかかり、“芯がありそして優しい”現代の“おふくさまに”に出会うことができましたことを感謝しつつ、ご報告させていただきました。 (おふくの会会長 杉山) #
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| 2012-08-29 21:16
| ゆかりの地を訪ねて
宇喜多家とは深い縁の金沢に行ってまいりました。 皆さまもご存じの、豪姫さまとの縁について、まず一言。 豪姫は、加賀藩初代藩主前田利家と正室お松の方の四女として、天正二年(1574年)に生まれます。生後間もなく利家が親しくしていた羽柴藤吉郎(豊臣秀吉)と正室寧々の養女になりました。秀吉は、豪姫を溺愛し、「もし豪が男であれば関白にしたものを」と言ったといわれています。 その後、秀吉の養子扱いとなっていた宇喜多秀家と結婚し、二男二女をもうけます。ご存じのように秀家も秀吉に可愛がられ57万石の大大名になり、前田利家、徳川家康、毛利輝元、上杉影勝らとともに五大老の一人として豊臣政権を支えるのです。しかし、1600年(慶長五年)の「関ヶ原の戦い」で豊臣家の恩義に報いて西軍に加わり、敗戦後の慶長11年に2人の息子とともに八丈島へ流刑となります。豪姫は、二人の娘とともに兄利長を頼り金沢に移り住み、余生を送ることになります。そして、金沢城鶴の丸で数奇な運命を閉じることとなったのでした。(1634年) さて、私の金沢訪問です。 最初に「大蓮寺」を訪ねました。このお寺は豪姫(戒名樹正院殿命室寿彰大禅定尼)の菩提寺です。葬儀は家臣であった中村刑部(豪姫が金沢から連れてきた重臣の1人で、旧宇喜多家臣とのもめ事で殺されそうになったところを豪姫が金沢にかえした中村次郎兵衛だと思います)、一色主膳ら多くの有縁によって行われたそうです。 お位牌とともに、豪姫が秀家と2人の息子の無事を祈った念持仏の「聖観音」がありました。また,二男秀継が母の顔を忘れているかもしれないと、前田家から荷物を送る際にそっと豪姫がしのばせた自画像の写しが拡大されたものもありました。自画像の額が真っ白くなっておりましたのでお伺いいたしましたところ,秀継が母恋しさに毎日触って白くなったと言われているとのことでした。その他、「舟型鍵」がありました。これは「聖観音」のお厨子の鍵で「大悲船」の銘が入っており、1676年(延宝4年)豪姫没後から約40年後家臣たちが姫の果たせなかった思いを船に表して作ったものだそうです。 大変興味深かったものは格天井でした。宇喜多家の紋「児」を中心に中村家「蝶」、一色家など、豪姫に従った家臣の家紋がまわりをとりまいていて、永遠に主を守り続けているようでした。 ご住職様から伺ったお話ですが、親子の別れは豪姫だけでなく、乳母として秀高,秀継に付き添って八丈島に渡った“あい”にも2人の幼子があり、悲しい別れをしなければならなかったのです。子供たちは母恋しさのあまり、僧になって島に行こうと試みますが、いっこうに行けそうにないので、直訴におよびます。しかし許されず、「沙汰を待て」という幕府の命を信じ待ち続けました。が、結局、行くことはできなかったそうです。菩提寺の裏に豪姫と秀家の記念碑があるとのことで、入らせていただきました。 ご親切なご住職にお礼を申し上げ、大蓮寺を後にしました。 次の日、早朝に野田山墓地を訪ねました。日本最大の面積を誇る墓地で、まるでお城のように、下段に庶民の墓,中段に家臣、そして上段に前田家と整備されておりました。 あまりの大きさに唖然としておりましたら、なんと日本カモシカが突然現れ、驚くやら感激するやら、とても不思議な気持ちになりました。 豪姫の墓は父母の近く、兄夫婦の後方にひっそりと立っていました。前田家ではないが大切な預かり人として丁重に葬られて、誰でもいつでもお参りできるよう柵はありませんでした。明治の廃仏毀釈で墓石が壊され代わりに鳥居がつくられていますが、豪姫の墓だけは前田家預かり知れぬということで壊されず、そのまま残っておりました。 とてもご親切な方がいらして、いろんなお話をしてくださいました。感激して、タクシーに乗りますと運転手さんが「あのかたは兼六公園の中にある成巽閣の館長さんです。ラッキーですね、ここで説明して頂けるなんて・・・」と言われ、またまた感激するやら驚くやら。 短い旅ではありましたが、主人や子を思う豪姫、その豪姫を思う母、おまつの愛が家族を動かし,家臣を動かし、そして幕府を動かし、流刑とはなりましたが、宇喜多家存続に繋がったのだと確信致しました。ここにも子を思う母の愛がありました。 大蓮寺ご住職様、館長様そして金沢城でボランティアしてくださいました木村様、有難うございました。とても素敵な経験をさせていただき、感謝申し上げます。金沢と岡山は親戚の間柄、これからもどうぞよろしくお願い致します。 (おふくの会 会長 杉山真子) #
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| 2012-07-06 15:53
| ゆかりの地を訪ねて
5月12日おふくさま(円融院)のお嬢様(容光院)をたずねて北広島に旅しました。岡山インターより約3時間北広島千代田インターより20分程の所に万徳院跡があります。1574年ごろに、この地域に勢力をひろげていた吉川元長が建立した寺院跡です。元長の死後弟の広家が吉川氏の菩提寺として長い参道や石垣、庭園、建物の増築などの大修理を行いました。しかし1600年吉川氏が現在の山口県岩国市へ移されると、万徳院も建物ごと移転しました。 ![]() この吉川広家こそが容光院の御主人なのです。3本の矢で知られる毛利元就の子、元春の3男で吉川家の跡取りとなります.容光院は宇喜多直家と円融院の娘で、秀家の姉になります。豊臣秀吉の養女となり吉川氏に嫁いだようですが、お母様に似てとてもお美しく聡明でいらしたようです。広家からも大切にされ、家来衆はもちろん村人からも愛されていたようですが、2年半ほどの短い結婚生活の後お亡くなりになりました。(1588年嫁ぐ~1591年病死) 万徳時跡より10分も行かないところに容光院様の墓がありました。新緑に包まれ、鶯が楽しげにさえずる中、導かれるように階段をのぼりお参りをいたしました。優しい空気が漂う神秘的な感じさえするところです。短い生涯ではありましょうが、きっと広家様の愛を一身に受け、大事にされ、穏やかに過ごされたと思います。まだ、秀吉さまの時代で、おふく様も、秀家さまもお元気の頃です。容光院様がお亡くなりになって数カ月で、出雲の国に移るよう秀吉様より命令がでたようです。広家公は妻の墓を万徳院に築いて弔いました。その後も正妻はお持ちにはなりませんでした(側室はあり)。 ![]() 万徳院跡より少しはなれたところに、吉川元春館跡があります。ここは元春公が1583年に隠居所として建設を始めた館です。元春、元長(元春の長男)亡き後広家が増築しました。1591年、出雲に移ると徐々に館としての機能を失い、1600年関ヶ原の戦いののちの検地帳でも城館跡として記載されているようです。 その後400年間田畑や森に埋もれていましたが村の方々の協力もあり、発掘作業が始まり、昭和61年に「吉川氏館跡」の一部として国の史跡に指定されました。そして平成14年 「吉川元春館跡庭園」が国の名勝になりました。 ![]() 400年の間、地下に眠っていた屋敷跡は、万徳院跡もおなじですが、その当時の生活そのものを残していて、便所、風呂場、台所、部屋の跡からは当時の人達の息吹を感じました。容光院様のお住まい跡もしっかり残っていて、そこから可愛い小さな、土人形の犬が見つかりました。おふくさまがお嬢様の安産を願いこの人形をお持ちになったのかもしれませ。(残念ながらお子様はいらっしゃらないようです) ![]() そこから少し山を登りますと、吉川元春と元長の墓がありました。今でもご子孫の方々がお参りにいらしているとのことです。 ![]() 吉川氏は山口県の岩国市と思っていましたが、ここ北広島にルーツがあったのです。そして宇喜多家とも深い関係があったということです。(吉川氏はもともと駿河の国、今の静岡県の出身です) 目前に日山がみえます。ここは日山城跡で、容光院さまが嫁がれた時は3日3夜、宴が催されたとのことです。今もなお、何事もなかったかのようにどっしりと姿をみせております。 ここでとても気になったのが、石垣です。立石の間に石を横積みにする独特の技法だそうです。石つきのもの供と呼ばれた職人集団によるものと考えられています。 おふくさまのお嬢様を訪ねる旅でしたが少しですが、おふくさまに触れることができたように思います。母と娘の愛は昔も今もおなじなのですね。 ![]() この地域の方々がとても親切で 優しいのに感激いたしました。 観光協会の三宅さん、ボランティアガイドの粟野さんありがとうございました。 (おふくの会 杉山) #
by o-fuku
| 2012-05-29 16:39
| ゆかりの地を訪ねて
澄み切った空気もすがすがしい冬の一日 2周年の記念講演会を開催いたしました。 宇喜多家の菩提を弔う光珍寺さまのお堂は、我が岡山城下町の歴史に関心を寄せる大勢のみなさまで埋まりました。(満員御礼) 冒頭 おふくの会会長から 盛会を祈って(案じて)応援に駆けつけてくれたという「息子夫婦」“宇喜多秀家”と“豪姫”(岡山城下町物語隊役)の紹介がありました。 “秀家”公からは、「私の築いた岡山の城下町のことをよく学んでほしい」との力強いご挨拶。その姿も凛々しく、母おふくさまはさぞ誇りに思われたことだろうと納得するようでした。続いて「かわいい嫁」“豪姫”さまは、可憐ながらも豪気なところを披露され、宇喜多家の女性の姿をしっかり見せてくれました。 ![]() 続いて、宇喜多直家公のご命日バレンタイン法要に先だって、おふくさま(もとい、おふくの会会長)と“豪姫”の手作りの“特製宇喜多家家紋と旗印入りチョコレートケーキ”(↓)をお供えしました。 ![]() ![]() “秀家”、“豪姫”がお供えしてくれました。(熱気で霞んだ写真になっておりますが;) そして、本日の講演会 乗岡講師の「宇喜多直家、秀家と岡山の城下町」です。考古学の視点から見た、岡山城、岡山城下町の成り立ちを熱く、楽しく、丁寧にお話しくださいました。 直家公、さらに秀家公が築いたお城の姿がより現実的に見えてくるようなお話でした。秀家が築城した岡山城には豊臣秀吉との深い結びつきがあることは知られているところですが、発掘される遺構、瓦の形状分布など、まさしく考古学が教えてくれる「大坂城」と「岡山城」秀吉と秀家の強い繋がりについて、具体的に示してくれる、講師ならではの貴重なお話でした。私たちが暮らす岡山の街の中で、こうして宇喜多家と繋がっているということも実感することができました。 ![]() 時をさかのぼって岡山城下をめぐるようなお話、講師の熱い講演に耳を傾ける“秀家”と“豪姫”です。80名あまりの聴衆一同、一時間と少し、“秀家”たちと岡山の城下を探りました。 お帰りには おふくの会から手作りの小さなチョコレートを来場の皆さまに差し上げました。 2周年の記念を 多くの方とともに 有意義に楽しい時間とすることができましたことを感謝いたします。今後ともどうぞよろしくお願いします。 追記 会場に、郷土岡山に関わる多くの興味深い本を刊行して、岡山の人々から愛されている吉備人(きびと)出版さんがお越しになり、今日のテーマに関わる2冊の名著をご紹介くださいました。“絵図”で歩く岡山城下町、そして“劇画”による岡山城築城物語 です。どちらもお薦めです。 _2348018.jpg|201202/11/92/|mid|480|360#] #
by o-fuku
| 2012-02-11 22:34
| イベント
一年で最も寒い季節が近づいてきました。バレンタインという日がそういう季節にあることは偶然でしょうが、厳寒の中での温もり…になるような日にも思えます。そして、2月14日は宇喜多直家公のご命日。「おふくさま」にとっては夫君である直家公に想いを寄せる日です。 2010年の2月14日、「おふくの会」は発足しました。 2周年を迎えて、本年も記念の講演会を下記の要領で開催する運びとなりました。昨年に続きまして、宇喜多家の菩提寺「光珍寺」さまに参集でございます。岡山内外の歴史好きの皆さま、「おふくの会」に出会いたい皆さま、どなたもどうぞお気軽にお運びくださいませ。 記 日時 2012年2月11日(土) 午後1時30分~ 場所 光珍寺さま (岡山市北区磨屋町) 内容 講演 「宇喜多直家、秀家と岡山の街づくり」 講師:乗岡実 氏 (岡山市教育委員会文化財課) ごあいさつ おふくの会会長 杉山真子 ゲスト 岡山城下町 物語り役「秀家」と「豪姫」 備考 参加費無料、駐車場若干、お問合せは「おふくの会」086-222-2121(セントラルホテル 杉山まで) ※ 予定している内容等についての確認や詳細は「おふくの会」にお問い合わせください。 本講演会は、宇喜多家菩提寺である光珍寺さま、岡山市観光協会の各方に後援いただきました。深く感謝申し上げます。 昨年は、2月14日の直家公命日ご法要の当日に「おふくの会」発足一周年記念講演会として開催させていただきました。本年は、法要とは別の日程になっております。毎年、バレンタイン法要に直家公へのチョコレートがたくさんお供えされますが、今年は記念講演会の2月11日に「おふくの会」からも❤を差し上げたいと思います:)☆ #
by o-fuku
| 2012-01-09 10:43
| イベント
ご報告です。 先日、宇喜多フェスティバルのコンテストで選ばれた初代「秀家」(山根輝久さん)と「豪姫」(松島彩さん)。岡山市の観光PRにこれから東奔西走が始まります。 10月24日光珍寺さまにて、「出陣式」がありました。秀家、豪姫とともに、岡山観光コンベンション協会、岡山市経済局観光コンベンション、おふくの会がそろって光珍寺さまにご挨拶をかねてお参りに行きました。 石渡住職より宇喜多家の歴史、秀家と豪姫、直家公と円融院(おふくさま)の人となりなどをわかりやすく楽しくお話いただきました。経済局観光コンベンションの小林さんから、観光大使としてのお二人の心構えについて、それぞれの役を演じるだけでなく、協力してお二人にしかできない秀家・豪姫になってくださいと激励がありました。 おふくの会としましては、私たちの会の説明と活動についてお話をしたうえで、「母」として、お二人にはとりわけ頑張っていただけるようお願いをしました。 大変和やかな会となり、岡山の未来を担うお二人、また私たちおふくの会にとりましても新たな出陣の日となりました。皆さまもどこかでこの秀家、豪姫に出会われましたら、我が息子たち、どうぞよろしくお願いします。 おふくの会 杉山真子 #
by o-fuku
| 2011-10-29 21:51
| イベント
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