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7月4日、おふくの会恒例の「宇喜多家ゆかりの地を巡る旅」に行ってまいりました。 今回は少し趣を変えまして、関ヶ原合戦前後の宇喜多家、また豊臣家とのつながりを感じたく思い、昨年に引き続き京都を訪ねることにしました。 まずは、秀吉公が祀られている豊国神社と方広寺へ。 元々この場所には、豊臣家が造営した方広寺大仏殿がありました。東大寺の大仏殿よりも大きかったそうですが、地震や火事で大仏殿は現存していません。巨石による石垣がその名残を留めています。鳥居をくぐると立派な唐門が目に入ります。この唐門は伏見城の遺構と伝えられ、国宝に指定されています。精巧な彫刻が施された黒い木地に金色の装飾や桐・菊の紋が映えて、いかにも桃山時代!という豪華な造りです。神社の方にお聞きすると、桐・菊紋は明治時代に移築される前から変わっていないとの事ですが、屋根の上の見えない部分には徳川時代の葵の紋も残っているそうです。 神社へお詣りした後は、宝物殿へ。この宝物殿は広くありませんが、秀吉公ゆかりの品々が満載です。瓢箪型の馬印、大きな蒔絵櫃、枕、秀吉公の歯(!)、秀頼公の真筆など・・・。展示ケースのガラスもよく見ると少し波打っていて、貴重な大正時代のガラスであることが分かります。見逃せないのが、豊臣家の御用絵師である狩野内膳が描いた重要文化財『豊国祭礼図屏風』。秀吉公の七回忌にあたる慶長九年(1604)に豊国神社で催された祭礼の様子が描かれています。祭礼の盛大さ、当時の神社の広大さに驚きます。 次はいったん境内を出て、隣接する方広寺へ。ここには、あの有名な「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘がありました。高さ4.2m、外径2.8m、重さは82.7tもあるそうです。鐘を突く撞木も長くて(3~4mくらい?)、直径は20~30センチはありそうでした。全てが巨大すぎて撞くのが大変そうです。この梵鐘から創建当時の壮大さが分かりました。今回は伺っていませんが、方広寺創建当時の西門は三十三間堂の南大門として、南大門は東大寺の南大門として移築現存しているそうです。どちらもかなり大きいもので、写真からも当時の壮大さが窺えます。 方広寺の次は、耳塚へお参りしました。古い洛中洛外図屏風などにも必ず描かれています。この塚は通りを隔てた側からも確認できるほどで、想像していたよりも大きいものでした。当時から現在まで、きちんと供養され続けているのが救いです。 本来の豊国神社は、現在の神社の東側にある阿弥陀ヶ峰山頂の豊国廟にあり、秀家公が関ヶ原合戦前に戦勝祈願と出陣式を行ったといわれています。今回は豊国廟へのお参りの代わりに、宝物殿裏にある馬塚にお参りしました。高さ2~3mほどもある大きな五輪塔です。徳川幕府により豊国神社が廃された後、秀吉公の供養塔とされていたそうです。今は周りが駐車場になっていて、少し寂しい感じに見えました。 次に、秀吉公のご正室・北政所ねね様ゆかりの高台寺へ(諸説ありますが高台寺様に倣って、ねね様とします)。 掌美術館では、今年が「大坂の陣」四百年にあたるというので、大阪の陣前後に関する品々が展示されていました。館長さんに御挨拶し、その後の木下家に関するお話を教えていただきました。 圓徳院は伏見城の化粧御殿とその前庭が移築されたものだそうです。圓徳院の方のお話では、ねね様はここから高台寺へお参りし、秀吉公の菩提を弔うのが日課だったそうです。化粧御殿にしては少し地味に感じたので、圓徳院の方にお聞きすると、残念なことに当時の建物は幕末の戦火で失われたそうです。現在の建物はその後再建されたものですが、ねね様が心を慰めたであろう前庭は当時と変わっていないようです。 高台寺では開山堂、霊屋へお参りしました。開山堂の手前の天井は秀吉公の御座船、奥の天井にはねね様の御所車が用いられているそうで、とても豪華な造りで当時の豊臣家の権勢が偲ばれます。霊屋は内部全体に高台寺蒔絵が施されていて、とても美しいものでした。 最後に、京都文化博物館で開催されている「大関ケ原展」を見学しました。 今年は「大坂の陣」四百年と同時に、徳川家康公没後四百年でもあります。屏風や絵巻、合戦に関わった武将の書状や甲冑など多数の展示品が並べられ、見ごたえのある展覧会でした。そのなかでも小早川秀秋公の肖像画を拝見できた事が収穫でした。少し頼りなげな少年然とした有名な肖像画。ねね様の命によって描かれた、高台寺所蔵のもの。高台寺のご住職と話された岡山の瑞雲寺(秀秋公の菩提寺)のご住職のお話では、ねね様が手元で育てていた幼少期の風貌で、ねね様が抱いていた可愛らしい面影を描かせたんでしょう、との事。そう聞けば、このあどけなさも納得です。いろいろ言われていますが、残っている陣羽織や木像、戦場での逸話との印象が違いすぎると常々思っていました。秀秋公には堂々とした風貌の青年期の肖像画があります。こちらも公開されれば印象が変わるのにと思います。 今回は、豊国神社と高台寺にお参りして、ようやく豊臣家ご夫婦に御挨拶できた気持ちになり、何だかほっとしました。 宇喜多家の運命が変わった関ヶ原。参陣した武将で最も長生きしたのは秀家公。秀家公の領地を受け継いだのに、早くに亡くなってしまった秀秋公。秀家公は秀秋公に対して激怒していたそうですが、どちらも一生懸命だったと思うと切なくなります。お二人とも岡山にゆかりの方、これから少しずつでも顕彰していければと思います。 豊国神社の方、掌美術館の館長様、高台寺のガイドさん、貴重なお話をありがとうございました。 おふくの会 奥田
by o-fuku
| 2015-08-03 09:11
| ゆかりの地を訪ねて
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